学校法人 南山学園 南山高等学校・中学校女子部Nanzan Girls’ Junior & Senior High School

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朝のこころ(3月10日ミサ)

2022.03.11News

3月10日、女子部チャペルで行ったミサでの赤尾神父様によるお話です。

2022年3月10日ミサ神父講話「ミサによせて」

今日は、このチャペルで久々にミサが献げられるということで、昨年度は一度もできませんでしたから、おそらくほぼ2年ぶり、私にとっては初めてですので、この機会が与えられたことにありがたく思います。

もうすぐ今年度も終わろうとしています。今となっては、あっという間にも感じられますが、皆さん一人ひとりにそれぞれの経験があり、それぞれの学びがあり、それぞれの喜びや悲しみがあっただろうと思います。個人としては様々でしょうが、学校全体、社会全体、世界全体としてみれば、やはり大変な一年、もしくは二年だったのではないでしょうか。コロナ禍でやりたいことができない、当たり前にできていたことがゆるされない、目に見えて大変なこともあれば、知らない内にストレスがたまって、間接的に余計ないざこざが生まれていた、ということもあったかもしれません。

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先ほど朗読してもらった第一朗読(第二コリント6:1-10)で、パウロは「今や、恵みの時。今こそ、救いの日」と語っています。「今日こそ素晴らしい恵みにあふれた日だ」ということです。それは、パウロが脳天気で毎日何にも心配事がなかった、ということではありません。逆に、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓、辱め、悪評などがあると言いながら、でも、その中で「常に喜ぶ」と言っています。

コロナ禍にしても、11年前の東日本大震災のような大災害にしても、戦争も、社会のいろんな問題も、なければもちろんない方がいいし、どうしてこんなことが起こるのかと問いかけても、その意味はわかりません。多くの困難はどうにも避けられないもので、現実に、私たちの目の前にあります。

けれども、そんな中でも、皆さん自身の毎日の生活の中に、様々な喜びや楽しみがあったはずです。私も、学校の中でいろいろと大変なことを経験しましたが、でも生徒たち、特に今受け持っている中1が一年前にはまだ小学生と変わらないくらいだったのが、成長した姿を見せてくれていたり、その生徒たちがいろんな場面で助けてくれたり、困難の中にも喜びがあり、たくさんの良い思い出として残っています。

福音朗読のヨハネ福音書(12:20-26)では、イエスがこのように語られています。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。これは、自分の命を粗末に扱いなさい、ということではありません。私たちの日常の生活の中では、文字通り「命をかける」という極端なこともないかもしれません。しかし、種が成長して実を結ぶためには、種が種のままでいては実現できない、自分の殻を割って、破って、芽を出さないといけない。痛みを感じるほど自分の身を削ることもあって、居心地のいいところから抜け出して初めて、芽を出して、大きく成長して、実をつけて、みんなに食べてもらえる。

私たちが「今日が恵みの時、救いの日だ」と言えるようになるには、黙って口を開けていて、どこかから自然に幸運が降ってきて、誰かが与えてくれるのを待っていてはどうにもなりません。喜びや希望は、私たちが自分で見出すものであり、私たち自身がつくりだしていくものであり、お互いの間で分かち合って、広げていくものだということです。

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この一年間をふりかえりながら、たくさんの恵みが与えられていたこと、周りの人に助けられたことに感謝しながら、今まだ種の中でもがき痛んでいる人たち、特に11年前の大震災で今も傷を抱えている方々のために祈りつつ、私たち一人ひとりが自分の殻を割って、芽を出して、実を実らせて、その喜びを周りの人と分かち合うことができるように、このミサを通して祈りましょう。