クリスマスメッセージ 【校長より】
2021.12.23News
本校校長ヨセフ・ブルーノ・ダシオンより、終業式で生徒に向けて贈られたクリスマスメッセージです。
「神の平和」
ある母親が、手づくりのクリスマスケーキの前に、先ほどまで喧嘩していた幼い二人の息子を連れてきて二人の肩にそっと手を置いて、言った。「今日はクリスマスだよ。クリスマスおめでとう。仲直りして、おいしいケーキをたべよう。」
このように、どこの、だれの親でも、仲たがいしている自分の子どもたちが仲直りするのを望んでいる。
これが親の尊い祈りなのだ。親という存在は、つねに自分の子どもたちを守り、導く天使のようなものであり、その目は子どもたちを表面的な良し悪しで分け隔てしない。
愛情をもって、もっと大事なことを見ている。
平和を求めることは、わたしたちの重要な使命なのだ。
平和を願わずに生きることができるだろうか。
平和を祈らずに、なぜに生きようとするのか。
しかし、考えてみれば、人類が、平和を求めるのに必死なあまり戦争を選択してしまう例はあまたある。それは、そもそも、出発点が誤ったからだ。
わたしたちは、戦争や争いを終わらせ、平和を構築する思いを持っているが、最初から、戦っている人たちのどちらかのサイドに立ってしまうということだ。
そしてだいたい 弱い者ややられた方に味方する。
このようになれば、双方のための平和は実現できなくなる。
弱い者だけの平和になれば、相手の強い者が憎まれることになり、本当の平和は得られなくなるだろう。
平和を実現するには、わたしたち自身をどちらのサイドからも自由にさせることだ。
さもないと、試合を楽しみに見に行ったのに、試合場に入ったら応援するチーム側に席を取り、好きな選手のユニフォームをまとい応援することと同じになる。
試合を楽しむのを忘れ、戦争モードにギアチェンジをしてしまう。
試合というのは、「両チームがお互いのベストを尽くしてプレーするから楽しい」という大切なことさえも忘れてしまう。
このようなわたしたちは、もう平和の人でもなく試合(スポーツ)を愛する人間でもなくなる、好きなチームの応援団の一人になるだけだ。
そのような状態の中のわたしたちなら応援するチームが勝利を得たとしても、心には真(まこと)の喜びがもてないはずだ。
なぜならば、相手チームが負けたことを喜び、負けたチームの悔しさをちっとも思いやってあげる心の余裕がないからだ。
また、相手チームが勝利をおさめたとすればわたしたちの心は完全に相手に対する怒りや嫌味の炎に支配されてしまうからだ。
クリスマスは、「神の平和・真の平和」を示してくれるのだ。
幼いイエスのもとに集う中には
家族の者も、見知らぬ者も
貧しい羊飼いたちも
富裕な王様・博士と呼ばれる人たちも
いる。
正しい者も、正しくない者も
動物の群れも、あまたの天使も集ってくる。
これこそ、無償で分け隔てのない神の愛を示している。
聖書はこのように教えてくれるのです。「神は善人にも、悪人にも雨を降らせ、正しい人にも正しくない人にも太陽を登らせる...」
また、イエスは教えた。「昔の人たちは、『仲間を愛し、敵を憎め』と教えたが
わたしは言っておく『敵をも愛し、あなたを憎む人のために祈りなさい』」と諭す。
(『マタイ福音書』5章43節―45節参照)
弱い者や貧しい人を守るがために
強い者や富裕者を憎んで、打ち倒すことは
何のためにもならず、ひどい対立をのこすだけになる。
自分の善い行いを誇り、悪人を裁き
自分の善い行いに賛同しない人を憎み
自分が善い人であることを否定する人を敵と思う
そのような者なら、平和を実現することやチャリティーなんかできるわけがない。
平和は、愛しあうこと、
平和は、ゆるしあうこと、
平和は、へりくだること、
平和は、人を敵と思わず、
人をみかけで判断せず、
その心の美しさだけを信じて愛し続けていく努力を惜しまないこと。
神の平和が
世界平和、わたしたちの平和
自分の平和になることを祈ろう。
良いクリスマス、良い新年を迎えましょう。